【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪48≫』

「宙」のまつり東九条マダン その⑧

民衆とは何なのか/表現と文字 その②

   
   
    最近、あのお姉ちゃんを見ない。もう何年前になるか忘れたけど、ある日、帰宅すると、家の敷地にたくさんの荷物といっしょにどかっと座っていたお姉ちゃんがいた。 お姉ちゃんは大きな目を見開いておれの顔をじっと見上げている。 「ゆっくり休んでいきや」と声をかけると「おん!、にいちゃん!!、ごめんな、ちょっとな、ひざな、わるいねん!!ごめんな!!」と大きな声で応えてくれた。 「そうか!!足悪いんか!!」「せや!!ありがとう!!!」なんてやりとりをして以来、道で会うと話をするようになった。 お姉ちゃんと会う時はだいたいお姉ちゃんは道に座り込んで休んでいる時で、おれも地べたに座り込んで話をした。 たまに大通りの向こう側から平山を見つけると「おおおおおおおおおい!!!」と手を振りながら声をかけてくれる。 名前も知らないそのお姉ちゃんはおそらく平山より10くらいは年上の人だったとおもうけど、足が悪いらしく、病院に行った話とか、最近よくなったとか、 今度は腰が痛くなったとか、どんなストレッチをしているとか、職場で嫌な事を言われたとか、そんな話を合うたびに聞かせてくれた。 ぽつぽつ、家族の話なんかもきかせてくれたりした。 会話というよりはそのお姉ちゃんがその時したい話を滝のようにまくしたてて時折平山が何か一言ふたことはさむような感じなのだが、 何年も話をしていると同じ話をくりかえし聞くようになる。 でも、会話というのはそういうもので、その同じ話というのはその人にとっての「神話=記憶」なのだ。 もちろん神話といってもそれは誰の人生にもよくある話で特別何かおもしろいってことはない。 理路整然としているわけでもない、時系列も混線している、何度か聞くと細かい設定が変わっていたりする。 だけど、話をするというのは本来、おもしろい必要は無いし、論理的である必要も無い。 ただの会話なのにおもしろくて役立つものでなければならないという強迫観念がある現在が異常なのだ。    
 平山の話や書くことがおもしろいと言ってくれる人がいる。それは平山が「書き言葉」を身に着けているからである。 複雑な事象でもある程度、構造を掴んで、時系列を整理して自身のことばで説明することができる。近所のお姉ちゃんにそれはできない。 だからといって、平山が知性的で、お姉ちゃんに知性が無いということではない。知性の種類がちがうだけだ。 平山のことばは「書きことば」。お姉ちゃんのことばは「話しことば」。それは異なる種類の知性である。 だが残念なことに、お姉ちゃんのように一方的に自分の話をまくしたてる人はこの社会では敬遠されるだろう。 もっと簡潔にまとめて話をしてくれとか、同じ話をするなとか、その話前言ってたことと違ううとか、つまらないとか、そんなふうに非難されるのだろう。
   
たしかに「一階」の人との会話はそんな会話が多い。つまらないなーと感じながら聞いてる時も多々ある。 だけど「一階」の世界の「話し言葉」は本当につまらないのだろうか?実はその「話し言葉」を理解出来ていないだけなのではないのだろうか。 「書き言葉」で「話し言葉」を理解することはできないのだから。いやそもそも「理解」しようとすること自体が「書き言葉」的な態度であって、 そんな態度では「話し言葉」を聞くことすらできない。
   
「書き言葉」を身に着けた「わたし」はすぐに人の話を理解して学ぼうとする。学んだことを生かして現実の「問題」に役立て成長しようとする。 より良い未来のために。確かにそれは良い事だ。だからこそ「わたし」はもう「話し言葉」を聞くことすらできなくなった。 「わたし」は他者のことばに意味や価値や刺激や解決、つまり「情報」を求める。
   
「書き言葉」とは端的に「情報」である。その「情報」は意味や価値、論理や構造があり、それを他者に知らせる意義があるからこそわざわざ「書かれた」のだ。 だが「話し言葉」は「情報」ではない。「話し言葉」の本質とは「過去」、つまり「記憶」である。だからそれはお姉ちゃんの話のように何度も何度も反復される。 だがその「反復される記憶」は、「書き言葉」的世界にとっては、もう「知っている情報」であり、それを二度三度聞くことに「価値」は無い。 特に「より良い未来」にしか興味関心が無い近代人の「わたし」にとっては、何故過去の同じ話を繰り返すのか、その営為自体が不合理で野蛮で痴的で病的にすら思える。 だが、「話し言葉」を不合理に感じてしまうなら、「わたし」はすでに「話し言葉」を失ってしまったということなのだ。そしてそれは「記憶=過去」を失ったということである。
   
「話し合いが大切だ」「話し合いで解決しよう」というけれど、実は「話し合い」とは「書き言葉による話し合い」でしかない。 それは「話し言葉による話し合い」ではない。だから「一階」の世界と「二階」の世界は「話し合い」ができない。 「二階の世界」から見ると「一階」の世界は「話し合いができない野蛮な世界」に「見える」。
   
「話し言葉」の本懐は会話ではない。「話し言葉」とは「語り」なのだ。そして「語り」とは「わたし」が「語る」のではない。「語り」は常に、死者が語っている。 「話し言葉」とは死者たちの世界のことばであり、それは「記憶の世界」のことばである。「記憶の世界」とは死者たちの世界である。
   
ゆえに、近代的自我を確立した「わたし」が「話し言葉」を「聞く」ことはできない。
   
確かにおれはこれまでの人生でたくさんの本に救われてきたし、「書き言葉」を身につけたからこそ狂わずにすんだし、死なずにすんだし、殺さずにすんだ。それは事実だ。 だけど、文字を読み書きできるようになることで失った何かがあるという感覚がずっとあった。その「何か」を近所のお姉ちゃんはもっている。 その「何か」を平山の周りの「一階」の世界の人々は保っている。
   
平山は「民衆」を
   
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
   
と定義し、それに加えて連載前回では
   
「民衆とは非文字の者たちである」
   
という定義を加えた。
   
これは簡単に、
   
民衆とは「話し言葉」を使う人々
   
と言っていいだろうし、それに対して
   
近代人は「書き言葉」を使う人々
   
と言ってもいいだろう。もちろん近所のお姉ちゃんも文字は読める。だがその会話には「書き言葉」的な技術や感性は無い。 つまり読み書きができるということと、「書き言葉」を高度に内面化しているということは別のことである。 大学を出て階級上昇するということは、社会的、経済的に優位になるということよりも、この「書き言葉」を高度に内面化できるということの方が大きいように平山には思われる。
   
その「書き言葉」を高度に内面化した「二階」の世界の者たちで構成された東九条マダン。 東九条マダンの基にある「民衆文化運動」における「民衆」とはまさに「書き言葉」によって再構築された「民衆」であった。 つまりそれは「在日も日本人も同じ民衆」という概念操作によって再構築された「民衆」だが、まさしくこの「概念操作による再構築」こそは「書き言葉」の為せる技術である。 という意味で東九条マダンという「まつり」は「話し言葉」的世界ではなく「書き言葉」的世界の「まつり」である。
   
その東九条マダンで上演されているマダン劇は朝鮮の仮面劇にその起源がある。
   
田耕旭 「韓国仮面劇 その歴史と原理」 田村伸一 監訳 李美江 訳 p311 より引用する━━━━
   
仮面劇の台詞では単語、句と文、公式的表現単位を頻繁に繰り返す。反復によって作られた台詞は口頭伝承である仮面劇の特徴的な姿をよく示している。 このような反復方式によって作られた台詞と既存の歌謡を借用して作られた台詞は、仮面劇の台詞の律動感を助成する基礎をなす。 口頭伝承ではただ一度の口演を通して内容を伝えるため、反復方式をしばしば用いる。
   
━━━━引用以上
   
マダン劇の起源でもある朝鮮の主に農村で営まれていた仮面劇。その仮面劇は文字で書いた台本などがあるのではなく、代々「口頭伝承」されて伝えられたものである。 つまりそれは「話し言葉」による「表現」である。
   
だがその「マダン劇」を韓国から輸入した梁民基氏が初めてマダン劇を知ったのは、月刊『読書』という「本」であり、 その後1981年に梁民基氏が『仮面劇とマダン劇』という本を翻訳することで韓国の民衆文化運動やマダン劇を日本に紹介することがきっかけとなり、 その後大阪でマダン劇が上演されることになる。
   
つまり日本における「マダン劇」は「口頭伝承」ではなく「本」、「書き言葉」によって開始されている。 かつて朝鮮の農村で行われていた仮面劇は「口頭伝承」の「話し言葉」による「表現」だった。 だが韓国の民衆文化運動における「マダン劇」及びそれを輸入した日本の「マダン劇」は「文字」で書かれた「書き言葉」による「表現」である。 これは同じ仮面劇でも決定的に違う何かである。
   
先に引用した文章には
   
>仮面劇の台詞では単語、句と文、公式的表現単位を頻繁に繰り返す。反復によって作られた台詞
   
とある。「公式的表現」それに「反復」。これは「話し言葉」の文化の一つの特徴である。
   
W-J・オング「声の文化と文字の文化」 藤原書店 より引用する━━━━
   
p54
ホメロスは再三にわたってきまり文句をくりかえし用いていた。ギリシア語のラプソーディンの意味、 すなわち、「歌を綴り合せる」(ラプテイン「縫い綴る」+オーデ「歌」)が、当時の詩の作りかたを暗示している。 ホメロスは、あらかじめ出来あいの部品を綴りあわせたのである。そこにいたのは、創造者ではなく、むしろ、組み立てラインの労働者だった。
   
p55
ホメロスの詩の言語の全体は、奇妙にも、アイオリスとイオニアの。初期および後期の方言の特徴を混在させている。 こうしたホメロス詩の言語の特徴は、いくつかのテクストが塗りかさねられたものとしてよりむしろ、 古い慣用句を用いる叙事詩人たちによって長い年月のあいだに生み出された言語としてもっともよく説明されるものだった。 つまり、そうした古い慣用表現を、詩人たちは保存し、ないしは、もっぱら韻律上の必要からつくりかえてきたのである。 ホメロスの二つの叙事詩は、それまでに何世紀もかけてかたちづくられ、そして手をくわえられてきたすえに、紀元前七〇〇年から六五〇年にかけて、 新しいギリシアのアルファベットによって書きとめられた。こうして、このアルファベットで書かれた最初の長編作品が生まれたのである。
   
p57
ホメロスの時代のギリシア人がなぜ陳腐な常套句を評価したのかといえば、たんに詩人だけではなく、声の文化に属する[人びとの]認識世界ないし思考の世界の全体が、 そうしたきまり文句的な思考の組み立てに頼っていたからである。 ことばがもっぱら声であるような文化においては、いったん獲得した知識は、忘れないように絶えず反復していなくてはならない。 知恵をはたらかすためにも、そしてまた効果的にものごとを処理するためにも、固定し、型にしたがった思考パターンがどうしても欠かせなかった。
   
━━━━引用以上
   
古代ギリシアにおいて、それまで「口頭伝承」によって語り継がれていた物語をホメロスが文字にしたとされるのが「オデュッセイア」と「イリアス」である。 つまり「オデュッセイア」と「イリアス」には口頭伝承の「声の文化」の特徴がそのまま書き写されている。 W-J・オング『声の文化と文字の文化』によれば「話し言葉」すなわち「声の文化」の特徴として「常套句やきまり文句の繰り返し」をあげている。 それは同じく口頭伝承である朝鮮の仮面劇における「公式的表現単位を頻繁に繰り返す。反復によって作られた台詞」と一致する。
   
何故「きまり文句(公式的表現単位)」が「反復」されるのか、W-J・オングによれば「ことばがもっぱら声であるような文化においては、 いったん獲得した知識は、忘れないように絶えず反復していなくてはならない。 知恵をはたらかすためにも、そしてまた効果的にものごとを処理するためにも、固定し、型にしたがった思考パターンがどうしても欠かせなかった。」のだという。 もちろん理由はそれだけではないのだが、これは現代の「話しことば」的心性にもみられる特徴ではないだろうか、と平山は感じる。 つまり現代においても「書き言葉」を使う習慣が乏しいのであれば、ある「出来事」を「記憶」するためには「反復」して口に出すしかない。 だがもう一歩踏み込んで考えてみると、何故そもそも、人生の中の膨大な「出来事」の中からある特定の「記憶」を「反復」する必要があるのだろうか?
   
それは「話しことば」とは論理性や構造の把握、問題解決のための営為ではなく、「記憶の再現=世界の再生、更新」にこそ価値や意味があるからだ。 「話し言葉」そのものが「世界の再生」となっているからだ。それは「書き言葉」による「世界の分析」や「世界とわたしの分離」と対極の営為である。
   
さらに
   
W-J・オング「声の文化と文字の文化」 以下引用━━━p119
   
なぜなら、声の文化は、つぎのような項目にはまったくかかわりをもたないからである。 たとえば、幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析さえもそうであるう。 これらの項目はすべて、[純粋な]思考そのものではなく、テクストによってかたちづくられた思考に由来するのである。
   
━━━━引用以上
   
つまり、ふだんわれわれが当たり前のようにしている論理的な推論や包括的な記述とは「書きことば」でなければできない「特殊」な思考であることがわかる。 例えばこの連載がそうだ。この連載も48回を重ねたが、この膨大な量の思考を「話しことば」だけで構築することは不可能である。 そもそも本人でさえ、書かれた文章が無ければ考えた内容を全て憶えていることすらできない。この連載は「話し言葉」ではなく「書き言葉」だからこそ可能な思考である。
   
だが、この連載の根底にあるのは「話し言葉」である。平山はこの連載第二回において
   
>叫ぶことしかできない者、沈黙することしかできない者、「文化」以前を生きる者は多文化共生からは排除される。
   
>だけれども、東九条という地域は叫ぶことしかできない者、沈黙することしかできない者の、ことばをもたざる者たちがたくさんいた。今もまだいる。
   
と書いた。
   
この叫びと沈黙とはまさに「話し言葉」のことである。そしてこの文章で書いている「文化」とは「書き言葉」のことである。
   
「話し言葉」の世界の者が「書き言葉」の世界の横暴や差別に怒りや悲しみや痛みを示す時、それは叫びや沈黙にならざるを得ない。 そしてその叫びや沈黙は頭脳明晰な「書き言葉」の世界の者たちには「野蛮」な「暴力」に見える。
   
確かに平山は「書き言葉」を身に着けた。そしてそれをある程度使いこなすことが出来ている。だがおれは、叫び、沈黙を失わなかったし、捨てなかった。 「話し言葉」を失わなかったし、捨てなかった。
   
おれがここ数年東九条多文化共生エリアで抗議し戦い続けてきたのは、「二階」の世界の「書き言葉」が「一階」の世界の「話し言葉」を蹂躙し続けてきたからである。 そしてこの連載は確かに「書き言葉」で書かれているが、それは「話し言葉」を守るためにある。 「話し言葉」を生かすために、殺された「話し言葉」を復活再生するためにこの連載の「書き言葉」はある。だが本来「書き言葉」とはそうあるべきだ。
   
「話し言葉」を低俗だ非合理だ反知性だなんだと貶め切り捨てるために「書き言葉」はあるのではない。
   
「書き言葉」による「分析」や「分離」はやがて来る、「話し言葉」による「統合」のためにある。
   
いや、「統合」なんて言葉は固すぎる。
   
愛が愛を愛するために、その分離はある。
   
故に「書き言葉」は「話し言葉」に捧げられなければならない。
   
だからこの連載は、死者たちに捧げられている。
   
平山は、「一階」の世界の人間、「二階」の世界の人間、両方とも関わりがある。 平山の「一階」の世界とは家族もそうだし、近所の人たち、掃除の仕事の職場の人たち、めったに会うことは無いが小、中学校の同級生もそうである。 平山の「二階」の世界の人たちは、平山といっしょに表現をする人たちであったり、アカデミアに属する人達である。 「一階」の世界のひとたちも、「二階」の世界の人たちも平山にとってとても大切な人たちだ。 平山の中でそこになんの分断も分裂もないのだが、だけど「一階の世界のことば」と「二階の世界のことば」には大きな違いはあると感じる。
   
もちろんその違いはどちらが上とか下とかではなく、知性のあり方が根本的に異なるというだけだ。 これはあくまで平山にとってはという話であって、一般化できることではないが、やはり「一階のことば」は「話し言葉」的であり、「二階のことば」は「書きことば」的である。
   
その違いは何か。
   
「一階」(話し言葉優勢)…過去の話を反復する、時間は前に進まず円環する 。解決志向ではなく出来事(物語)志向性。分離ではなく調和=コスモロジー(全体性)指向(ただし神は死んでいるのでコスモロジーが形成されない)。
   
「二階」(書き言葉優勢)…過去は現在や未来へ進むための題材や「問題」。時間は「より良き未来」を目指して前に進む。出来事(物語)ではなく解決指向性。 調和よりも分離≒分析、論理、構造把握的。(神が死んでいるので自我は分離したままで虚無主義におちいりやすい。)
   
と、とりあえずはいえるかもしれない。くりかえすがこれはあくまで平山にとっての、という話であってこんなに単純に図式化したり一般化できることはない。 論を進めるために便宜上このようにわかりやすく分けているが、論はあくまで論であってそれは現実そのものではない。 当然「一階のことば」を使う人にも二階的な志向性はあるし、「二階のことば」を使う人にも一階的な志向性はある。
   
その前提の上で話を進めるが、
   
「一階」の「話し言葉的世界」の大きな特徴とはやはり「過去の話の反復」にあると感じる。「一階」の世界では、何度も何度も過去の同じ話を聞かされることがある。 恐らく「二階」の世界の人間はこの「一階」の反復される過去の話を聞かされれば退屈でうんざりすることだろう。もしかしたらそれは「病い」だとすら「診断」されるのかもしれない。 だが、それが「病い」なのだとしたら、それは「神が死んだ」からである。 「神がいきいきと生きている」時代であるならば、過去の話の反復は古代ギリシアの吟遊詩人や古代や中世の朝鮮の仮面劇と同じ営為となったであろう。 それは本連載でたびたび言及している『資本主義と他者』において荻野昌弘氏が議論している「追憶の共同体」を形成する「語り」であるのかもしれない。
   
過去の話を何度も反復するのは話題が無いからとか、教養が無いからとか、過去に縋っているからとかそういうことではない。 それは「話ことば世界」の人々にとっては「記憶」こそが「世界」を生成しているからである。という意味では平山がいう「死者こそが生者を生かしている」という感覚に近い。
   
古代や中世のような、まだ人間が神々や精霊、鬼神とともに生きていた時代であるならば、「過去」は神々の話そのものであった。 「過去」は世界そのものであった。「記憶」とは「神々の記憶」のことだった。その「過去」は決して「わたし」の個人的な「物語」ではない。 その神々や精霊が繰り返し語られることで神々は現在に蘇り、世界は新たに再生され、共同体が強く形成される。 だが現在、神々は死に、精霊は隠れた。「神が死んだ後の過去」は単なる「わたしの物語」となり、その「反復」はいつまでも繰り返される「愚痴」のようなものにまで貶められた。
   
そんな神々が死んだ後の近代を生きるには、確固たる「近代的自我」を確立している必要がある。 そして近代的自我を確立するためには「書き言葉」を高度に身に着けている必要がある。だが、「一階」の世界の人間にはその「近代的自我」を確立する条件が乏しい。 そこには単に「世界」から切り離された浮遊する個の群れが漂っているだけで、「浮遊する個」の「反復する話」はただの個人的な愚痴にならざるをえない。
   
神も死んでかつ近代的自我も形成されない現代において、「話し言葉」は、進歩の無い、非論理的な、つじつまの合わない、意味も無ければ価値も無い、 ともすれば「病い」の症状でしかないものとなった。
   
神々が消えた「記憶」は、もはや世界を再生しない。
   
それでも「話し言葉の世界」の者が「反復」し続けるのは、世界の再生ではなく、「記憶」の再生、つまり神々の再生を願ってのことなのではないかと、平山は感じる。
   
現代の「話し言葉」はずっと神さまを探している。死んだ神さまをさがしている。隠れた精霊を探している。
   
だから、「記憶」を再生するためには、神々の死体を見つけるしかない。
   
神々の死体は、実は、「病い」の中にこそある。神々を殺した書き言葉世界の者が「病い」だと診断したその「病い」こそが神々の死体であり、 「病い」が癒えるというのは、神々がよみがえるということ、つまりそれは「世界が再生」するということである。
   
他者と話すことで癒えることが起きるのは、「話し言葉」を取り戻したからに他ならない。
   
逆に言えば、現代における「病い」とは、端的に「話し言葉」の喪失なのだ。「話し言葉」の喪失とは「記憶喪失」であり、「記憶喪失」とは神々の喪失のことである。
   
神々とは、身体のことである。
   
平山が「話し言葉」的感性を失わなかったのは、やはり「チェサ」をやっていたことが大きい。 チェサとは朝鮮の家庭でやる祖先崇拝の法事のことだが、この儀式は「口頭伝承」である。文字で書いたマニュアルはない。 そして毎年毎年同じことが「反復」される。それは宗教的な儀礼であり、「書き言葉」的世界の「近代的自我」から見れば意味も価値もない不合理な「儀式」である。 だが平山はこの「チェサ」をこどものころにやっていたことによって「話し言葉」の精髄を身に着けることができたのである。
   
チェサは「口頭伝承」であるからにはそれは「記憶」の想起によって生成される「世界」である。 またチェサは先祖崇拝の儀式であるからその「世界」は「顔のある死者」そして「顔のない死者たち(渡辺哲夫 「死と狂気」より引用)」とつながっている。
   
「記憶の想起による世界の生成」が「反復」されること、これこそがまさに本来の「話し言葉」の世界である。
   
チェサはことばを使う儀式ではないが、 太古や中世の吟遊詩人たちや朝鮮の仮面劇などはまさにこの「記憶の想起による世界の生成」のために「きまり文句」や「公式的表現単位」を「反復」し続けてきたのだ。 だからこその「きまり文句の反復」が民衆のこころをとらえ、世界を新生し続けた。
   
だが悲しい事に現在の「話し言葉」は「記憶の想起による世界の生成」が起きない。何故ならその「記憶」が「神々=世界」とつながっていないからである。 「世界の生成が起きない同じ話の繰り返し」は現代ではただの愚鈍な愚痴としか受けとられれず、それは「病い」と診断されてお終いである。
   
今更神々を再生することは叶わない。新しい神をでっちあげれば早晩それはカルトと化す。 だからこそ個人的に関わりのある「顔のある死者」そしてその奥にある「無量無数の顔のない死者たち」とのつながりを再生することこそが、「記憶」を「世界」とつなげる道となる。
   
「記憶」と「世界」とが再びつながり重なる事が「話し言葉」の再生の道となる。
   
「記憶」と「世界」の重なりこそが「神々」なのだ。そして
   
「記憶」と「世界」が重なるその場こそが「身体」である。故に
   
「身体」は「神々」である。
   
「一階」の世界の反復される過去の話に耳を澄ませていると、時折そこに死んだはずの神々がふいに顕れることがある。 隠れたはずの精霊が踊っている音が聞こえることがある。明晰ではない暗闇、蛇行し見失う森の道、そんな話し言葉の反復のなかでひっそりと神々や精霊、鬼神たちは生きている。
   
それは決して明晰性や論理性や構造把握という「書き言葉」の視覚的な意識では「聞こえない」世界だ。
   
平山は民衆を
   
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
   
と書いた。これを
   
「書き言葉から排除されている人々、であるがゆえに話し言葉を生きざるを得ない人々」
   
と言い換えることもできるだろう。
   
民衆が「書き言葉」から排除されているのは必要十分な教育を受けることができなかったからである。 共同体が強固で、神々が生きていて、精霊が躍動していた時代ならそれでよかった。だが近現代の社会において「書き言葉」から排除されている人々、 であるがゆえに話し言葉を生きざるを得ない人々」はその「話し言葉」すら生きることができなくなってしまった。
   
故に、現代に「民衆」はどこにも存在しないのである。
   
神々が死に、精霊が隠れ、死者たちすら存在できないこの社会においてもはや民衆は存在できない。
   
神々を殺し、「話し言葉」を殺したのは「書き言葉」である。明晰に、論理的に、科学的に思考すれば確かに神々は存在しない。 だが、神々を殺した結果「話し言葉」は世界を再生しなくなり、そして世界は消滅しようとしている。
   
世界は昔も今も「問題」だらけだ。「二階、三階、n階」の「書き言葉」の世界はその「問題」を「解決」しようとする。
   
その明晰さで、論理で、分析で、技術で、「問題」を「解決」しようとする。だが「書き言葉」によって「問題」を「解決」しようとすればするほど「話し言葉」は壊れ死んでいく。 そしてその「問題」とやらを新たに作り出しているのはむしろ「書き言葉」なのではないのか。 もちろん「書き言葉」は必要な「理性」だが、分析すればするほど世界は細分化され分けられ整理されるが行き過ぎたそれは分離や分断をもたらす。
   
今、世界に必要なのは「話し言葉」が本来もっていた、
   
「記憶の想起による世界の生成」の「反復」
   
なのではないのか。
   
そのためにはまず、「書き言葉で話す」ことをいったん止めて、耳をすませて聞くことをはじめなければならない。
   
死んだ神々の声を聞くのだ。精霊が隠れている音を聞くのだ。死者の声を聞くのだ。死者たちの音を聞くのだ。
  
「視る」ことをやめて「聞く」
   
「問題」を「解決」するのではなく、「問題」を「聞く」。
   
きっとその「問題」とやらは、死んだ神々であり、精霊の隠れ家であり、打ち捨てられた死者たちそのものであるはずだ。
   
この連載において「民衆」とは何かを考えてきた。
   
「差異」と「同一性」、そして「人間」と「国民」を通して「民衆」について考えてきた。
   
確かにもう民衆は存在しないし、存在できない。
   
だが、かつて民衆がいきいきとくりかえした「話し言葉」は現代にも生きている。そしてそれをとりもどすことはできる。 書き言葉に習熟していないが故、という消極的な理由だが、その「話し言葉」を「一階」の世界の者たちは不完全ながら未だに使っているからだ。
   
かつて韓国の民主化運動において「二階」のエリート層が積極的に「民衆」に「変身」したように、
   
現代のこの社会の「二階、三階、n階」の世界の者たちも「一階」の世界に学び習わねばならないことがある。
   
それが「話し言葉」である。
   
現在、まさに世界が消滅しようとしている時に、必要なのは「話し言葉」、
   
「記憶の想起の『反復』による世界の生成」
   
である。
   
今、
   
二階が一階に
   
耳をすます時が来たのだ。
   
平山は「民衆」を
  
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
   
と書いた。
   
改めよう、
   
民衆とは話し言葉を生きる人々である。
   
民衆とは、世界を再生する人々である。
   
━━━━━
   
参考文献
   
W-J・オング「声の文化と文字の文化」 桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳 藤原書店
   
田耕旭 「韓国仮面劇 その歴史と原理」 田村伸一 監訳 李美江 訳
   
渡辺哲夫 「死と狂気」
   
朴容淑 シャーマニズムよりみた朝鮮古代文化論 第一書房





   

2026年7月25日

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