【平面の「わたし」と立体のわたし/ナルシシズムと重力】

     「わたし」の幸せと身体の幸せはちがう。次元が違う。「わたし」の幸せが二次元、平面なら、身体の幸せは三次元、立体である。という意味で次元が違う。
 次元が違うのだから当然質も違うし時間感覚も違う。わたしの幸せは平面で実現するわけだからそれをいくら積み重ねても立体には及ばない。 「わたし」が「わたし」を認識するのは平面が多い。 鏡、書類、身分証明書、スマホの画面に映るSNS,…。SNSでいいねがたくさん付けばうれしいのかもしれないが、それは平面での幸せである。 立体的ではない。そういえばお金も極めて平面に近い物体だ。平面的な幸せはだいたい脳からきもちのよい物質が出て脳がきもちよくなっておしまい。身体はだいたいおいてけぼり。
 二次元といえば絵画だが、絵画にも二種類あって、 ①描き手の二次元のイメージをそのまま二次元の紙に転写するような描き方と②描き手自身の身体の三次元性を二次元の紙に無理やり落とし込んでいるような絵と二種類ある。 ②のような描き方をするなら最初から彫刻などの立体で表現すればいいようなものだが、二次元に無理やり三次元の身体を落とし込むからこそ浮かび上がる三次元というものもあって、 それが表現のおもしろさでもある。ダンスは必ず三次元なのかと言えばそうでもなく、つまらないダンスは二次元的で平面的である。 それは頭のなかの二次元的なイメージをそのまま三次元に「投影」しているような動きの場合、そうなる。 写真だって平面だが不思議なことにカメラマンの身体が知覚した三次元性が転写されたような写真はやはり平面でありながらこちらのこころに立体の像を結ぶ。 二次元なのに三次元であるような表現を体感した時、感動が起こる。
 音声言語で認識する「わたし」が一次元なら、イメージで把握する「わたし」は二次元で、身体全体で知覚するわたしは三次元である。 一次元、二次元、三次元のわたしではそれぞれその質と量は違う。では何でもいいから運動などすれば身体の三次元性を感じることができるのかといえばそうではない。 二次元の「わたし」のイメージを「投影」したような運動では身体の三次元性には至らない。そのような二次元的な身体は「「わたしの身体」である。 三次元的な身体とは「身体のわたし」であり、さらに言うなら「身体の身体」である。
 三次元的な身体、三次元的なわたしを体感するには、二次元的な「わたし」から抜け出す必要がある。 鏡を見ない、身分証明書を置いておく、スマホにスクロールされない、それらは簡単に言えばナルシシズムに溺れない、ということに尽きる。 ナルシシズムは「わたし」を平面に幽閉する。そこに身体はない。身体が無いからこそそこに他者はいない。他者は必ず身体をによって顕現するからだ。
 ナルシシズムの牢獄からでるには平面をひっくり返して立体にするような営為がいる。 それは「わたしの身体」を次元ごとひっくり返して「身体のわたし」にするような営為で、言葉の上では単に言葉の前後がひっくり返っているだけだが、 二次元の紙を折っていって三次元の折り紙の鶴を出現させるような感じといえばそれが近いかもしれない。
 それはことばにするとややこしいのだが、要はとてもかんたんで、いつもどんな時も重力を感じていること、重力の線に乗っていること。 それだけのことである。重力の線から外れると「わたし」は二次元となる。重力の線に乗っかると、「わたし」は三次元のわたしとして『立ち顕れる』。
 平面の世界に重力は無い。平面に重力は影響をおよぼさない。重力を嫌うものがナルシシズムの牢獄に逃げ込む。 だからナルシシズムの牢獄から出るには、「わたし」が重力を感じればいい。それだけである。 「わたしの身体」を「身体のわたし」にひっくり返すのは、重力であり、重力を感じようとする愛である。

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