【読書感想文】
『日ノ岡壮みんなの部屋の物語 江端一起 前進友の会 えばっち 千書房』
>p99
あほらしうて、屁もでんな。「キチガイが生命の底で居直る」ということをもう一度その患者会から学びなおしなさいよ。
>p139
だからこそ、キーサン革命は、キーサン革命の鬼は叫び続けてきた。(「キーサン」とは、やくざが「ヤーサン」なら、
わしらキチガイは「キーサン」やという「生命の底で居直る」誇りと意識をもった精神病患者会に集う者たちの自称である。
今回も叫び続けるしかない。「働かない権利」だと、「反社会復帰」だと。
「キチガイが生命の底で居直る」。なんと凄烈なことばだろうか。なんと血まみれなことばだろうか。なんとあたたかいことばだろうか。
おれ自身は「ヤーサン」でもなければ「キーサン」でもない。でもこどものころから身近に「ヤーサン」も「キーサン」も居た。
おれも人生のなかで何か一つ間違えれば「ヤーサン」にも「キーサン」になっていたかもしれない。おれには「ヤーサン」の気持ちや「キーサン」の苦しみや悲しみや痛みはわからない。
わかりようがない。当人じゃないんだから。だけどおれは「ヤーサン」「キーサン」のその無念さはよく知っている。
さぞかし無念だっただろう。無念無念無念。無念無念無念。だけど今のおれを生かしているのはその数々の死者の無念だ。
その死者たちの無念を晴らすことはできなけどおれ自身が晴れとして生きることはできるだろう。
本書「日ノ岡壮みんなの部屋の物語」も無念無念無念無念の連続だ。あまりにも不条理に痛めつけられ踏みにじられ、収奪され利用され、捨てられ、殺される。
そして時に自分自身が加害をすることもある。無念に接した時、ことばは何もない。ただ目を瞑り胸を開くだけ。
おれとえばっちさんは似てるところがあって、文章が長い、読みにくい、絵文字めっちゃ使う、そしてその文章は理屈ではなく叫びである。
叫びなんだから読みにくいのは当然だ。叫びなんだからそれを嫌う人もいるのは当然だ。でも叫ばざるをえないから叫んでいるんだ。
叫ばなければ無かったことにされるから叫んでいるんだ。いや、叫ぶことにほんとは理由なんてない。「生命の底で居直っている」だけだ。
病気、貧困、差別、…、いろんな不条理や理不尽なことで「生命の底」にまで落される人はたくさんいる。
今なおそれは「自己責任」の一言でかたずけられるんだろう。そして「生命の底」で死んでしまう名も無き死者がたくさんいる。
無念。この命を全うできないのは本当に無念。「生命の底で居直る」なんてことは簡単じゃない。このことばはキャッチフレーズじゃない。
命がけのことばだ。手に身体に血がべったりついたことば。
読んでいてずっと混乱していた。この本に出てくる人たちがおれの身近にいた「ヤーサン」や「キーサン」に重なる。
でも彼女、彼らはも暴力団ではなかったし、何か病名がついた精神病者でもない。でもそれは「ヤーサン」「キーサン」と言い表す他ない人たちだった。
「社会の底」にいる人たちは常に「生命の底」と隣り合わせだ。もちろんそれは美化してるんじゃない。毎日が危機的で毎日が崩壊するかもしれない恐慌の中だ。
本書には衣食住の話 >ジッサイのセーカツ の話がよく出てくる。そして自治することの大変さがこれでもかと出てくる。
「生命の底で居直る」とは決して革命的に一発逆転を狙うようなことではない。それはきっと
>p169 『精神病者自身が、なかまたちのことを大切に思い、セーカツしていくコトだと。
なかまとともに支え合って生き、助け合って生き延び、街に居座りムラに居座り、食事会とレクで美味しいものを鱈腹食べ、
クダラナイことをワァワァ喋りながらゲラゲラ笑って、ケンカだってもしながらも、キーサントモダチ・スタッフダチンコになり合って、愉しく生きていく』
ことを続けるからこそできること、ジッサイのセーカツの一瞬一瞬の中に「生命の底で居直る」ことがあるのだろう。
この本は決して希望があるとか何だとかそんな甘っちょろいオハナシではない。
病気でも病気でなかろうとも人は無念さを抱えながら生活しなければならないし、だけどその無念を晴らすのも生活…「ゲンジツに根差したセーカツ」なのだ。
誰にでも彼にでもこの本を読めとは言わない。だけどビョーキであろうとビョーキでなかろうと、無念を生きる者は読んでみてほしい。
人によって無念はそれぞれちがうけれど、晴れることはひとつだから。この本には無念無念無念だけではなく、晴れがある
2024年12月10日記す